新型コロナによって進むリモートワークは産業革命の始まり!!
新型コロナによって進むリモートワークは産業革命の始まり!!
世界中に猛威を振るう新型コロナウィルス。
この影響により、様々な業種が困難な状況になっています。
今までの常識が一切通用しない世界で、
僕たちは今後、どのように生き、働いていくべきなのでしょうか。
ひとつだけ確かなことは、
今後の【仕事】のスタンスがリモートワーク中心になるということ!!
インターネットの普及はすでに始まっていたものの、
ゲームや趣味などの遊びが中心で、
ビジネスで実用されているケースがまだまだ少なったのですが、
新型コロナウィルスをきっかけに、今後は急速にリモート化が進んでいくでしょう。
この現実は後に歴史の分岐点と言われる時代がくるはずです。
つまり産業革命の真っただ中というわけです。
僕たちは、この変化に対応しなくてはなりません。
例えていうならば、
狩猟時代に、獲物を狩りにいく大衆を抜け、
畑を耕していた者こそが生き残るわけです。
ダーウィンの進化論ですね。
今後は確実に【個】の時代になっていきます。
すぐに今の仕事を辞めることはないものの、
同時進行で、【自分のビジネス】を確立していかなくてはなりません。
僕は10年ほど前からそのことに気づき、経営していた会社を退いて今のノマド生活をしています。
そのいきさつや、実体験をもとに
今後の人生の役に立つ思考術や行動方針などを提案していきたいと思います。
僕の実体験の半生記をエッセイにしてますので、読んでみてください。
こちら⇓
http://ina171717.livedoor.blog/
変化によって、今まで以上の人生が待っていることは間違いありません。
意識を高く持ち、今やれることからひとつずつやっていきましょう!!
この日のために、あの日があったことに気が付くその日まで。
僕の半生記のいろいろを動画でもみていただけます⇓
その瞬間を楽しむことを忘れずに^^
~LIFE IS A JOUNUY~旅の前②
~LIFE IS A JOUNUY~旅の前~②
なりたい自分から仕事を選ぶ
仕事とトレーニングを両立していた僕だが、
もう一つの転機となる趣味に出会うことになる。
それが、サーフィンだ。
毎週のように趣味の合うサーフィン仲間と千葉の九十九里海岸に通っていた。
サーフボード一つで波に乗る。
青い海に広い空。
陸には山が見え、健やかな風を巧みに操りトンビが鳴いている。
太陽のエネルギーで魂が充電されていくのがわかる。
サーフィンを通じて自然を感じ、地球を感じ、宇宙を感じることができる。
東京出身である僕には、自然を感じられる大切な時間だった。
こうして自然と触れ合う回数が多くなるにつれて、自分のライフスタイルに対する考え方に大きな変化を感じ始めていった。
先輩と共に会社を始めて七年が経ち、三十歳を迎えた頃、今後の人生設計を真剣に考えていた僕はある決断をだす。
男として、仕事は一生するであろう。
その仕事が、今やっている事で本当に後悔しないだろうか。
今の仕事にも、収入にも不満はない。
しかしこれから四十、五十歳と、この延長線上に自分の幸せはあるだろうか。
もっと自由に、もっと自分らしいライフスタイルを求めてはいけないものか。
何かを始めるのに遅いことなどない。
しかし早いに越したことはない。
思い立ったら止められない性格の僕は、先輩と話し、会社を退くことを決めた。
貯金もあったので、しばらくの間は仕事をせずに済んだ。
その間、今後の人生設計を立てることに集中した。
やりたい仕事があったわけではない僕は、なりたいライフスタイルを箇条書きでノートに書くことにした。
〇朝は苦手だからゆっくり起床できる仕事
〇というかそもそも通勤はしたくない
〇どこにいても仕事ができる
〇海のそばで生活したい
〇世界中を旅しながら仕事ができたら最高
こんな感じで、具体的な業種はなくとも、とにかく理想のライフスタイルを書きなぐっていった。
今見返しても、なんともワガママな内容ばかりだ。
あとはこのワガママ内容に当てはまる業種を探していった。
〇トレーニングをずっとしていたので、自宅でトレーナーもできるのではないか?
でもお客さんの予定を合わせなくてはならないし、人気がでたら自由がなくなる。
〇インターネットで無店舗販売なんかはどうだ?洋服や小物を仕入れて転売していく。
でも在庫を抱えるし、お客さんとのやり取りで手一杯にはならないだろうか。
こんな感じでいくつもの業種を見つけては、否定していく日々が続いた。
あくまで成功することを前提に考えているのだから幸せな奴である。
そして最終的にワガママライフにピッタリの業種を見つけた。
それがトレーダーだった。
当時はコンビニに置いてある雑誌でも、頻繁に株やFXの記事が目についた。
これだ!
在庫も抱えず、お客さんもいない。
自分のお金でお金を増やす。そのスキルを磨けばいいだけだ。
こうして決まったのがFX(外国為替取引)だった。
思い立ったらすぐ行動な僕は、さっそく東京の借家を解約して、千葉の九十九里海岸にある一宮町に引っ越した。
一宮は、のちに二〇二〇年の東京オリンピックでサーフィン会場に選ばれることとなる日本でも有数のサーフエリアだ。
そこで毎日サーフィンをしながら投資のスキルを磨き続けた。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
今までに数回の破産も経験した。
その度にバイトをしながら投資をやり続けてきたわけだ。
投資での奮闘の日々は、これだけで一冊の本が書ける。
機会があれば書いてみたいと思うが、
ここで伝えたいことは、可能性を自分自身で狭めてはいけないということだ。
【自分の限界は自分が決める】
一度は耳にしたことがある言葉だと思う。
この言葉は、例外なく万人に共通する事実だ。
昔、本で読んだことがある。
人間がアイディアや、やりたいことが浮かんだとき、何回チャレンジし、何回失敗したら諦めるものかという実験だった。
五回?三回?またはたったの一回?
答えは0回。
良いと思えるアイディアや、やりたいことが思い浮かんだとしても、
次の瞬間に頭の中で出来ない理由を探し出す。
そして一度もチャレンジすることなく諦め、日々の生活に戻っていくのだ。
同じようなことがたくさんの本でも紹介されている。
話しがそれたが…。
こうして少しずつトレーダーとしてのスキルが身についてきた僕は、キャンピングバスをローンで購入し、二〇一六年の五月(当時三十六歳)から旅を始めた。
理想のライフスタイルを求めて。
~LIFE IS A JOUNUY~旅の前②
~LIFE IS A JOUNUY~旅の前①
~旅の前~①
なりたい自分から仕事を選ぶ
二〇一六年の五月(当時三十六歳)からこの旅を始めた。
旅で出会った人の興味深い話や道中の出来事などを書いていくけれど、その前に今までの自分の事をここでは紹介しておきたい。
どういったいきさつでキャンピングカーライフになったのか?
仕事は?収入はどうしているのか?
みなさんの率直な疑問はこんなところではないだろうか。
まず初めに、家が裕福なわけではない。
父親は印刷会社のサラリーマン。母親は僕が小学校の頃からパートに出ていた。
四つ下に弟が一人いる。
小さい頃から「鍵っ子」という、東京の下町ではごく平凡な四人家族だ。
裕福ではないにせよ、不自由なく育ててくれた両親には今でも感謝している。
少年時代は運動神経がよかったこともあり、クラスの人気者だった。
子供の世界は足が速いというだけで主導権を持てる。
そのおかげで勝ち癖が付き、自信が持てる人間性ができあがる。
子供にスポーツをさせる親が多いはこんなところだろうか。
高校生の時はヤンチャだった。
仲間と集団でバイクを走らし(反省している…)、朝帰りは頻繁で、学校や警察から自宅に電話がくることもあった。
のちに母親はいう。
「いつ呼び出しの電話があるかわからないから、あなたが成人するまではお酒は飲まなかったわ」。
警察から呼び出された親が、酔っ払っているわけにはいかない。という理由からだ。
親にはかなり迷惑をかけてしまった。
社会人になってからは多くの仕事を経験した。
日焼けサロン・レスストランのウェイター・引っ越し屋・宅配便・先物取引や健康食品の営業・現場監督など…。
どの職業でも人並みには仕事ができ、すぐに上司からも気に入ってもらえるタイプだった。
しかし、仕事が慣れてくると面白みが感じられず、どの仕事も長くは続かなかった。
この頃から、雇われて働くことへの不自由さを感じていたのかもしれない。
そんな半端な日々を過ごしていた僕に転機が訪れる。
ヤンチャで有名だった地元の先輩と偶然に再会した。
先輩とは小学校からの付き合いだ。
若いころは声もかけられないほどの迫力で、憧れの存在でもあった。
起業し、恵比寿に事務所を構えていた先輩は、
スーツ姿にゼロハリバートンのアタッシュケース、腕にはロレックスのエクスプローラーが輝き、変わらぬ迫力に加え、大人の魅力が漂っていた。
『忙しく動くのは好きか?』
確かこんなことを聞かれたと思う。
それを機に先輩の会社を手伝うことになった。
イベント業を経営する先輩のサポートをしていたある日、一つの案件が舞い込む。
先輩の知人で芸能プロダクションの社長が、在籍モデルの委託営業をさせてくれるという。
これが人生の最初の転機となる。
クライアントの新規開拓をし、営業やモデルの管理も僕が行った。
利益が上がれば、給料も比例する出来高制だったため、考える力が重要だ。
これまでの仕事と違う点だった。
二年後には先輩が社長で僕が専務取締役となり、新会社を設立するまでとなっていた。
プロダクション業に加え、BARを二店舗経営し、すべての管理を任されるようになる。
当時二十七歳で月収は百万円ほどになっていた。
外食も頻繁になり、知り合いも増えていった。
そんなある日、ヤンチャ時代の旧友数人と飲んでいたときのこと。
【地下格闘技】の話がでた。
地下格闘技とは、喧嘩自慢の不良たちが観客の前で殴り合いをするイベントだ。
総合格闘技のように薄いグローブはするが、ルールはなんでもあり。
今では全国にも複数の団体がある。その先駆けとなった東京の団体が知り合いだという。
『稲、やってみれば?』
なんだか知らないが、誘われているようだ。
『おもしろそうだな』
この程度の返事しかしていないと思う。
すると、友達はその場で電話をかけ出し、
『もしもし~、あっ、お疲れ様です。いや、俺の仲間で一人強い奴がいるんですよ~。次回の大会に出たいというのでお願いします。』とあっさり出場を決めてしまったのだ。
『出たい』と言った覚えはない…。
しかし何事もでも経験である。
その日から、仕事をしながらトレーニングをする日々が始まった。
お酒も辞め、心身を鍛えていく行為は僕にとって苦ではなかった。
結局、それから二年間で五試合に出場し、負け無しという結果を残すことができた。
こんな経験はできるものではない。
その友達には感謝している。
※【ストイックスター稲】で検索できます。
~LIFE IS A JOUNUY~旅の前①
~LIFE IS A JOUNUY~僕の半生記 まえがき
愛犬のクマジが吠える声で目が覚める。
「もう少し寝させてくれ」
そう言った僕だが、車内の暑さで眠ることができず、諦めて身体を起こした。
キャンピングバスのドアを開けると、勢いよく外へ飛び出すクマジ。
草むらで朝一の小便をする彼の横で、煙草をくわえながら一緒に用をたした。
目の前には太平洋の海が広がっている。
とっくに顔を出し終えた真夏の太陽から、容赦なく、それでいてエネルギッシュな熱を全身に浴びる。
今日はどこで目覚めたのか…。
一瞬考えながら記憶をたどる。
クーラーボックスからミネラルウォーターを取り出し、昨夜のバーボンのせいで乾いた喉を潤す。
お湯を沸かしている間に手動のコーヒーミルで豆をつぶし、コーヒーを入れて煙草に火をつけた。
これが毎朝の日課だ。
僕の名は稲和弥。三十八歳。
マイクロバスを改造したキャンピングカーでサーフィンをしながら愛犬のクマジと旅をしている。
人生は一度キリ。
だからこそ、やりたいことをやって生きたいというのが僕の考えだ。
いつしか偉人になって(なったとしての話…)、座右の銘を伝えるとしたら
【必要なものは、必要な時に、必ず手に入る。やりたいように生きろ!】。
自分で考えたお気入りの言葉だ。
まあ、いわゆる変わり者って奴かもしれない。
ここでは、少し変わった僕の半生記の人生を共有できればと思っている。
有限であるこの人生に、少しでも早く【気づき】、自分の世界を満喫して生きていく後押しにでもなれたら幸いだ。
まずは一歩を踏み出すこと。
そうすれば、そこから信じられないような出会いや出来事が起こり始める。
そう、旅のように。
人生は旅だろ?
~LIFE IS A JOUNUY~
~LIFE IS A JOUNUY~まえがき
~LIFE IS A JOUNUY~僕の半生記 まえがき